『ソロモンの偽証』映画と小説のあいだ

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映画『ソロモンの偽証(前編・後編)』の原作者が、『理由』『模倣犯』など小説で数々の賞を受賞し、映画化されている作品も多宮部みゆきさんだと知り、早速、小説を読んでみました。

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→映画『ソロモンの偽証(前編)事件』について書いた記事はこちら
→映画『ソロモンの偽証(後編)裁判』について書いた記事はこちら

何社からも出版されている作品の本を選ぶ時、ブー子は持ち運ぶか持ち運ばないかで決めます。

この作品は長編。
家の床にゴロンと寝そべって読もうと新潮社のハードカバー・バージョンをチョイスです。
もちろんこの他に、小さな文庫本も出版されています。

「第Ⅰ部・事件」、「第Ⅱ部・決意」、「第Ⅲ部・法廷」と、縦197mm×横140mm×厚さ、それぞれ約40mmある本を3冊手にした時は「おっと、こりゃ最後まで読めるかな?」と弱気になりましたが、読み始めたらなんのその!
最初は1冊読むのに数日掛かっていたのに、裁判に入った第Ⅲ部を読む頃には、結果がわかっているものの、先が気になって気になって、どんどん読めちゃいます。

しかも各章毎、登場人物それぞれの視点から語られるので、ひとりに偏らず、いろいろな人が抱える思いや感情までがズドーンと伝わってきます。

学校、友達、先生、親、自分について。自分が中学生の頃、いや、今まで生きていて一度や二度は考えたことがあるようことがたっぷり味わえます。

小説から学ぼう
小説は映画と違って、文字が直接、心にズーンと訴えてくるものがあります。

例えば、裁判に関わりながら少しずつ成長していく子どもたちの言動。
他人の気持ちを考えずに問題行動を起こしていた大出の行動や思考の変化などがそのひとつですが、それぞれがみんな、自分の役割を果たしながら問題にそれぞれが向き合うことで、相手のことを思いやったり、大切なことに気付いたりしていく様子がリアルなんです。
その他にも、子どもたちを傷つけないようにと守りに入ってしまう大人たちが、迷ったり誤った対応をする言動もまた印象的です。過保護が子を守るわけではないのですよ。

ここでは、そんな小説からハッとさせられた印象的な文章をピックアップしていきます。

「第Ⅰ部より」

 
・ 正しいことはいつもそうだ。言葉にすると「言いすぎ」になる。(p.208)

 

「第Ⅱ部より」

 
・「みんな我が身が可愛いからね。学校に睨まれたくないんだろ」(p.45)
・学校というところは、被害者には弱い。(中略)〜世の中って、そういう理由で動いている場所なのかもしれない。(p.200)
・ひとつのことを考え、それを口に出す以前に、また考え直す。そんなことは大出俊次の行動原理のなかには存在していなかったパターンである。(p.205)
・ 気を悪くした様子はない。が、それから黙ったまま二人で連なって歩いてゆくうちに。俊次はゆっくりと、気まずさを感じ始めた。さっきみたいな言い方は、あんましよくなかったかもしんないな。(p.206)
・「生きているうちは、周りの誰にも何もわからなくたっていいんだ。本人がわかっていりゃいいんだ。本人だって、わかってるってことをわかってなくていいんだ」(p.227)
・自身の頭と心の中で闇雲に手探りしているだけだった涼子は、やっと出口を見つけた。探すべきなのは答えではなく、問の方だったのだ。(p.322)
・「学校はね、社会の必要悪だ。ところが現在では――そしてこのまま放っておけば未来も、"必要"がとれて、ただの"悪"に成り下がる。社会悪だ」(p.323)
・「あなたがあんな手紙を書いたのは、気晴らしだったんだって、ママわかってるんだから」そうやってごまかすのね。現実から、自分のやったヘマから目を逸らすのね。(p.363)
・「でも、あたしだったら、あたしだったらって考え方をしてちゃいけないんだね。人それぞれなんだもん」(p.595)

 

「第Ⅲ部より」

 
・ そして恵子は、能動的であれ受動的であれ大出俊次という暗い惑星から自由になったことで、自分の生活を見直し、立て直すことができるほどの自己コントロール能力を備えた少女ではない。時代が女の子たちの早熟を促し、早く大人びることに高い価値があると唆すことの大きな弊害は、人生の早い段階から異性に依存せずには自我を保つことができない女性たちが増えることだ。(p.17)
・「他にも卓也君は学校に対する不満を述べましたか?」「申しました。生徒の個性や個々の能力差を考えず、一律に同じことをさせ、同じ結果を求めるとか」(p.118)
・ あたしたち、自分で思うほど人に見られてなんかいない。世界は、あたしたちと関係のないところで回ってる。(p.328)

 

映画版と小説版の違いを知ると見えてくる真実※内容に触れていますので、知りたくない方は飛ばしてください。
オープニングは、新任教師となって母校に戻ってきた藤野涼子(結婚して苗字が変わっている)が、校長先生に促され、この学校で伝説となっている学校裁判を語るように始まる映画に対し、小説では、事件当日の12月24日の夜のことから語られてます。

しかも、映画と違って、翌朝、柏木を雪の中で発見したのは、藤野涼子と一緒ではなく野田健一ひとりだけ。
彼自身も母親と父親への不満があるという家庭の問題を抱えていて、何より教師となって母校に戻り、伝説の学校裁判の話をしたのは涼子ではなく、この野田健一だということにビックリでした。

…そう、この物語の主人公は、野田健一だったのです。

柏木卓也について考える
映画ではあんまりよくわからなかった彼の自殺の理由が、小説を読んですっきり解消!

 
「俺は柏木のこと、大人コドモだと思ってたんだよ」身体はコドモのまま、頭だけ大人になる奴のことだ――「一方大出は、コドモ大人だ。身体とやることが大人で、頭がコドモ。正反対だ」大人コドモはコドモ大人と相容れない。大人コドモはそれを認識しているが、コドモ大人にはわからない。「柏木は、大出たち三人組を軽蔑していたんだろうと思う。なんていうかな、同じ人間だと思っていなかった節がある。昆虫でも見るみたいにさ」(第Ⅱ部/p.347)

 

彼は、言葉や知識は豊富で、どこか大人びています。
ただ、思ったことや感じたことをすぐ言葉に出して相手を困らせるところは、まるで幼い子どものよう。

映画では、人がいじめれれているのを見て見ぬふりができず、だからといって誰かに助けを求めることもできず自分を追い詰めて、どうすることもできなくなってしまったのだろうと漠然と思っていたのですが、理由はそれだけではありませんでした。

経験を積み重ねていくと、人は無意識に嫌なことから目を背けたり、うまくごまかしたりできるようになるけど、それを誰かに「そうしなさい」と教わるわけではなく、それがいいというわけではないという思いもいつもどこかにあったりして。思春期は、そんな矛盾と自分の戦う時期なのですね。

生きることに目を背けてしまった柏木卓也。
映画で未来に立ち向かう勇気が必要なんだと締めくくられていたように、生きていくにも勇気が必要ってことだということを考えずにはいられませんでした。

おまけ:
「映画の原作が小説だったら、映画見る前に読む?」
「小説読んだら、映画見ないよ?映画観たら、小説読まないし」
「…

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ブー子