(更新 2016.01.05)

ウォルト・ディズニー「夢の国ディズニーランド」を見た

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2015年12月21日(月)23:00〜23:50 「BS世界のドキュメンタリー」4夜連続放送の最終夜では、ついに夢の国『ディズニー・ランド』の完成です。
映画もビジネスも頂点を極めたかのように見えた、ウォルトの生き様とは?!

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あらすじと感想

※内容を書いてます。当時を知るスタッフさんや様々な人のコメントで語られている番組です。ところどころ、内容が前後していたり、途切れたり、放送された流れで書いていますので、想像を働かせて読んでください。
1954年、カリフォルニア州アナハイムにディズニーランドを建設。そこは、アニメーションの中に入り込める夢の場所…。

トイレやゴミ箱に至るまで、徹底的に作り込んだディズニーランド。ウォルトも毎日のように現場に出向き、アトラクションの1つ1つに気を配っていました。

クルーズ船は走るけど、動物の模型は動かないなど、オープンの日が近づいてもやることは山積み作業員は2500人に増やされ、16時間労働で目標に向かってひたすら突き進みます。建設費は予定の3倍である1700万ドル!オープンの前日まで、ぞうの設置や塗装工、そしてウォルト自身も、海底2万マイルの絵を描いていたとか。

オープン当日。その様子は、ABCテレビの29台のカメラで中継されました。それは失敗だらけの生中継でしたが、国民の半数が自宅のテレビを見ていたという程の注目の的。ガス漏れあり、アスファルトにハイヒールがはまってしまう程の猛暑、と、大変な1日だったようですが、娘のダイアンは「あんな幸せそうな父は初めてだった」と語っています。

一般公開の日には、夜中の2時からお客が並び、あらゆる世界の政治指導者たちも訪問したというディズニーランドは、2週間のうちに来場者が2万人を達成します。アメリカを美化した理想の街を形にした場所であり、日常の苦労や現実から逃れられる場所記者たちは褒め讃えます。

清潔であり安全であり無害な場所という、思い描いた通りの世界を現実化したウォルトは、妻と園内で週末の夜を過ごし、翌朝にしぼりたてのオレンジジュースを飲むのが好きでした。そして、変装もせず、アトラクションの列に並んで、客の声に耳を傾けていたそうです。
 
 
1960年頃までに、エンターテイメント業のトップになったウォルトは、これらを守っていく方法を考え実行に移します。(その当時は「ブランド」という言葉がなかったので「シンボル」と言っていました。)

〜ミッキーマウスクラブの映像〜

作品の中で、多くのものを象徴していることも自覚していたウォルト
因みに『アラバマ物語』に出てくるお父さんは、実の父・イライアスのような人物です。しかし、物語のお父さんは(現実と違って)改心します。彼の創りだすエンターテイメントは、みんなハッピーエンド!「希望の心が勝利する」、それこそが彼の強い思いでした。また、それらについて彼はショービジネスであって、芸術ではないと主張しています。
 
 
ディズニーランドを紹介をするテレビで番組では、ウォルト自ら案内役として出演し、その中で「楽しいおじさん」という役を演じるかのように、台本を無視してアドリブを楽しんでいました。彼は、表向きの顔だと分かっていたのです。その番組の中では、酒もタバコもしない、けれど実際の自分はする、と。

そして、他の人とは違うことも知っていました。スタッフがいる部屋に入るだけで、空気が一変するのです。「ボスが近づいてきてるぞ、気をつけろ」と、「森に人間がいるぞ」という『バンビ』セリフにあるように、独特なパワーを持っていました。

がむしゃらに働き続け、壁にぶち当たることを恐れずロイとも何度も喧嘩をし、2人が何ヶ月も口を聞かない時もあったそうです。

スタッフに対しては、
☆良いアイディアが出た時や良い仕事をした時も決して褒めず、ただ「これでうまくいく」と言う。
☆協力しない人にはきつく当たる。
☆怒鳴られるのは当たり前、ボスなんだから(という考え)。

家族以外に親しい人はいなかった彼は、きっと「ホッとする温厚なおじさんと思われたかった」という空想と葛藤していたのだと思います。成功者でなければ感じることのない孤独も感じていたのでしょう。
 
 
61歳で最も多くのアカデミー賞を受賞していたウォルトは、更に『メリー・ポピンズ』を手がけ始めます。当初はアニメを入れるつもりはなかったそうですが、20年前の『白雪姫』を何度も見返した結果、アニメを入ることを決めます。

彼が求めたのは、ストーリー重視、児童文学だけど子ども向けではない作品でした。

〜『メリー・ポピンズ』のフィルムが流れる〜
メリー・ポピンズ役のジュディ・アンドリューさんの歌声がステキ!

心を入れ替える父に、実の父と重ね合わせます
名作に必要な要素が完璧に揃っていて、家族と、家族の癒しがすべて入った物語
1964年に制作されたこの『メリー・ポピンズ』は、アカデミー賞の13部門でノミネートされ、唯一作品賞を受賞した作品です。
それは、彼にとって、認められたという事を意味していました

その後、アメリカは変わっていきます。
〜ビートルズの音楽、公民権運動などのシーンが映る〜

ウォルト・ディズニーの支持者は、「ディズニーの世界は聖域だ」と言い、批判的な評論家は、「子どもの想像力を潰す」だの「古臭い」だの批評する。

しかしウォルトは、はっきり言い切ります。「チープで古臭いものが好きなんだ」と。

商業的成功。これらはウォルト・ディズニーが自分の信念を曲げなかったから成し得た事だったのです。

1965年、広大な土地をフロリダに買います。

「アトラクションはユニークなものを作る」と言うだけで、概要については、あまり語らなかったと言います。

実験的・未来的な都市「エプコット」

「自分には何が残せるのだろう…」

未来都市の話をする人はいたけれど、実際につくろうという人はいないのではないでしょうか?ウォルトが思い描く未来都市は、巨大企業が隣接し、全てが一体化しているもの。その理想図の中には、自分の座るベンチまで考えていたそうです。

ウォルトは仕事を離れ、家族旅行に出ます。
「家族で乗ったヨットでは、娘の夫や孫たちに囲まれ、嬉しそうだった。」(娘の話)
「夜にひどく咳き込んでいたのが聞こえた。」(娘の夫の話)

フロリダに戻り、ディズニーワールドという未来都市を作るため、酸素吸入をしながら撮影にも臨んでいたウォルトは、精神的にも辛そうでした。
「首、肩、腰の痛みで気が変になりそう。」

病院に行くと、肺に映った影、、、ウォルトの余命は、長くて2年と告げられます。

「ずっとタバコを吸っているのに、肺がんにならない人も知っているのに…。」
彼は、悔しかったに違いありません。。。

翌日から入院します。
ロイは、朝早くからお見舞いに行き、ウォルトの冷える足を温めました。

1966年12月14日の夜、ロイは、リリアンを安心させた後に家へ帰し、ウォルトに付き添い、エスコップについて語り続けていたと言います。

「仕事のスタッフもその家族にとっても、辛い一日だった。」
「彼が亡くなったなんて信じられなかった。」
1966年12月15日 アカデミー賞29回受賞 ウォルト・ディズニー 死去

彼の訃報は、あらゆるニュースで取り上げられました。

疑問が横たわっている。「どうしたら人生を見つけられるのか…」
「彼はあらゆる人に影響を与えてきた。」
「あらゆる文化でこんなにも活躍してきた人はいない。」
「今だけでなく、未来までも作る人。」

彼は人間というものをよく知っていたのです

第4夜「夢の国ディズニーランド」 おわり

全4回
〜2015年 アメリカ SARAH COLT PRODUCTIONS/WGBH制作〜
語り:山寺宏一さん

こちらも書いてます。↓
第1夜「ミッキーマウスの誕生」
第2夜「アニメーションのパイオニア」
第3夜「戦争と混乱の時代」

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