(更新 2015.12.30)

ウォルト・ディズニー「ミッキーマウスの誕生」を見た

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2015年12月21日(月)23:00〜23:50 「BS世界のドキュメンタリー」4夜連続放送の第1夜は、厳格な父との確執を抱えた幼少期からロサンゼルスで兄のロイとスタジオを設立するまでのお話です。古い資料と、当時のスタッフの話を交えて制作されたこの番組を見て、ディズニーファンだけでなく、誰よりも多くのアカデミー賞を受賞したという、あらゆることを成功した人『ウォルト・ディズニー』について、知るのもおもしろいのではないでしょうか?彼の素顔とは一体…?

番組の内容を掻い摘んで書いていきます☆

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あらすじと感想

※内容を書いてます。当時を知るスタッフさんや様々な人のコメントで語られている番組です。ところどころ、内容が前後していたり、途切れたり、放送された流れで書いていますので、想像を働かせて読んでください。

いつでも全力で仕事をしていたウォルト・ディズニー
親しみやすいおじさんと思われたかったけど、一緒に働いていた人で、彼のことをそう思う人はいないでしょう。そう、彼は心に闇を抱えた人だったのです…。


こちらがウォルト・ディズニー

彼が目指したのは、名を上げること。映画を作って上映すれば、自分の考えをみんなと共感できると思っていました。

1919年。フランスの戦地から帰還した彼は、17歳ながら500ドル(当時の大金)を手にしていました。もうすでに普通の人ではなかったのかもしれません。父の工場で働くという選択肢もある中、その仕事を断り、広告デザインの仕事を始めます。

一晩に1本というペースで、あらゆる映画を観て、本などを参考にしながら独学でアニメを描いていたというウォルト。幼い頃から絵や漫画を描くのが好きだった彼は、本格的に絵を学んだことはないのに、良いものを作る自信があったんですって。

1920年に失業したのをキッカケに、同僚だったアブ・アイワークスと『ウォルト・アイワークス・カンパニー』を設立します。
その後、独立し、短編アニメ作品を作って売り込んでいたのですが、赤字。しかし、人々から注目されたい一心で『ラフォグラム社』を設立。中でも人気になったのが、アニメの世界でと実写の女の子が活躍する『漫画の国のアリス』でした。

その頃、両親もシカゴから引っ越してきます。
応援してくれる母に対し、父のイライアス・ディズニーは、「私を助けるために働け」というような人で、人が大好きで精神力もあるウォルトは「(父のような)あんな人生になりたくない」と思っていたようです。

自身の能力に楽観的で、何でもできると思っていた矢先、ニューヨークで実験的な作品を創り上げますが、1923年には時すでに遅し、、、資金繰りがうまくいかず、会社を潰してしまいます。彼が味わう初めての挫折でした。

しかしウォルトは心機一転、ロサンゼルスで、アニメーションではなく映画監督になろうと考え、チャップリンの映画撮影所の近くなどを歩き続けたそうです。因みにその時、兄のロイ・ディズニーは、映画界で働こうとは思わなかったそうです。

配給会社のマーガレット・ウィンクラーから「1話につき1500ドル払う」という声が掛かった。
ウォルトの情熱を愛し、生きがいを感じていたロイ。その後2人は「ディズニー・ブラザーズ社」を設立し、ロサンゼルスからデザイン広告の会社で出会った、能力のあるアブ・アイワークスを呼び寄せます。本来、自分より能力がある人を入れるということは勇気のいることですが、ウォルトは、自分よりすごい人を雇うことを恐れなかったのですね。

10人以上雇った後、ロイは家を建て、隣にウォルトも家を建てます。

ロイの結婚後、ウォルトも、会社の授業員だった恋人のリリアン・バウンズと結婚します。

1926年。ハイペリオン通りに引っ越す際にウォルトは、ロイに「ウォルト・ブラザーズ社ではなくウォルト・ディズニー社にする」と言いきったそうです。

大雑把で暴力的な作風が多かった時代。「ネコは溢れてるから、ウサギにしたら?」と配給会社に言われて考えた「ウサギ」が主人公の『ウサギのオズワルド』を制作し、大成功を収めます。しかし、給与水準が低いスタッフたちは、ボスのウォルトに対する不満が勃発します。そこで、なんとこの作品の配給で関わっていたチャールズ・ミンツが、スタッフの引き抜きをし、会社にはアイワークスだけしか残らなかったというのです。ウォルトは失意の中、ニューヨークからロサンゼルスに帰ります。


こちらが、オズワルド ぬいぐるみ(Amazonより)

その途中、幼い頃住んでいたマーセリンという町を通ります。自然の中で父親からも指図を受けずに、子どもらしくいられた場所に思いをはせます。

1928年。失敗しても、前進するウォルトは、イメージを描き続けていました。ネズミをモチーフにしたキャラクターです!彼は最初『モーティマー』と付けようとしますが、妻が『ミッキー』と名付けます。
ミッキー。うん。短くていいですよね。このブログはabcdeライフですがちょっと長すぎますかね?覚えにくいでしょうか?

「アニメに音をつけてみよう」「新しいことに挑戦しよう」
そんなウォルトの言葉に賛同し、ニューヨークで契約を決めると、ロイは、レコーディングの資金集めに奮闘します。

そして同年、ついにブロードウェイで、短編映画『蒸気船ウィリー』を初上映。当時、トーキー(音声)映画はあったそうです、音楽や音がギャグになっている作品は別物。評判上々!爆発的なヒットをとばします。
そしてミッキーは歌って踊れるコメディアン!ハリウッドのスターになったのです。


こちら、蒸気船ミッキー ぬいぐるみ(Amazonより)

1930年。ミッキーの人気は高まるばかり。
挑戦的で賢く何でもでき、反抗的で好き勝手に生きる『ミッキー』。
大恐慌の問題をじっくり考えるのではなく、最後には勝ち、成功し、恋人を手に入れるのが『ミッキー』なのです

ライセンスビジネスの天才ケイ・ケイメンの介入により、更に独自のグッツなどを売り出すことでも大成功!中でも時計が大人気となり、世界中からファンレターも届くようになります。

ミッキーはもう一人の自分」と、ウォルトミッキーの吹き替えを買って出ます

ウォルトは30歳を前にして大成功。

それ以降、アニメーターも数多く雇いましたが、朝から晩まで働いても追いつかない仕事の量に、イラだち、タバコをずっと吸い続けるウォルト。作品を評価し、監督する側になっていきます。子どもができると家を立てますが、リリアンが流産してしまったことがキッカケとなり、彼はひどく怒りっぽくなり、些細なことで泣き出してしまう程、神経衰弱していきました。

医師の助言により休暇を取ると、リリアンと一緒に、乗馬など運動するようにしたそうです。

そしてその後、芸術的な映像の作品を作り出していきます。
音と映像が見事にシンクロしている『骸骨の踊り』のフィルム
www.youtube.com/watch?v=M5udoLY40N0
必見ですね。

時は1930年代。女性は色塗りに限られていましたが、収入はどの会社よりも安定していたと言います。技術開発なども優れていた会社で、安心して働ける場所を作りたいと、ウォルトは奔走。スタッフも、陽気で気さくな彼を、友達のように「ウォルト」と呼び、まるで家族のようでした。

そんな彼にも、長女が生まれ、女の子を養子にもらい、娘2人と妻と安定した暮らしが始まりました。

第1夜「ミッキーマウスの誕生」 おわり
第2夜「アニメーションのパイオニア」に続く…

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